2022.7.20<日本人に救われたユダヤ人の手記>

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日本人にはあまり知られていませんが、ビザを発行したことにより6,000人ものユダヤ人を助けた日本人が過去にいました。

その人の名前は杉原千畝、現在でも多くのイスラエル人から感謝されている人物で、日本の外交官でした。

1940年にリトアニアの「カウナス」の日本領事館に赴任していたとき、ナチスドイツの迫害を受けて逃げてきユダヤ人に対して日本への通過ビザを発給しました。

通過ビザとは、日本から第三国へ行くことを条件として、日本への入国と既定の日数の滞在を許可するビザのことです。

千畝がユダヤ人に対して3,000以上の日本通過ビザを発給したことによって、6,000人以上の人々が救われました。

この通行ビザのおかげで多くのユダヤ人の命が助かったという事実から、千畝が発給した日本通過ビザは「命のビザ」と呼ばれています。

1939年9月1日、第二次世界大戦が開戦し、ナチスドイツがポーランド侵攻し、ポーランドの大部分を占領します。

この占領によりポーランドに多く住んでいたユダヤ人は避難民として近隣の独立国であるリトアニアに安全を求めて移動しました。

しかし、1940年には、リトアニアはソ連に編入され、西側からはナチスドイツ、東側からはソ連に挟まれる形となったため、ユダヤ人たちは一刻もその場を離れる必要がありました。

ユダヤ人は迫害から逃れるために、「トルコを通り、パレスチナに行くルート」を使う人がもともと多かったのですが、リトアニアのトルコ政府がユダヤ人に対してビザの発給を拒否するようになりました。

また、リトアニアには退避勧告が出ていたため、ほとんどの国の大使館や領事館は閉鎖されていましたのですが、日本領事館はまだ開いていました。

この時、ユダヤ人たちがナチスドイツからの迫害から逃れるために残された道はたった一つ。

「シベリア鉄道を使い、ソ連(現ロシア)を横断し、極東へ移動。その後船で日本に渡り、アメリカなどの第三国へ行くルート」だけでした。

そして、そのルートを行くには日本領事館で発給される「日本の通過ビザ」が必要不可欠だったのです。

日本の通過ビザを手にいれるために、大勢のユダヤ人はリトアニアの日本領事館を訪れました。

ある朝、千畝が目覚めると、カウナス日本領事館前に大勢のユダヤ人がつめかけてました。

そこにいたユダヤ人たちは、どうにか日本通過ビザをもらうために日本領事館に来たのです。

しかし、千畝が赴任していたリトアニアのカウナス領事館の目的は、ドイツやソ連などを中心に東ヨーロッパの国々の動向を探るための情報収集のためでした。

そのため、リトアニアの領事館でのビザの発給は、当時ポーランドの諜報期間の人用にしか想定されていませんでした。

「ユダヤ人たちにビザを発給することは想定されていない」のですが、大勢のユダヤ人が助けを求めて来ているのを無視するわけにもいかないので、千畝は日本領事館に来ていたユダヤ人何人かを領事館の中に入れて、話をしました。

その後すぐに千畝は、ユダヤ人たちにビザを発給したと仮定し、日本へ行ったユダヤ人たちが第三国へのビザを取得できる日数を計算した上で日本政府に連絡をとりました。

日本政府の返事は、入国先がちゃんと決まっていて、ちゃんと旅費がある人のみ通過ビザを発給しることを許可する。だったのです

この条件は、この時のユダヤ人だけでなく、日本の通過ビザを取得する全ての人は、滞在先の国の入国許可が下りていることが条件となっていました。

想定はしていたものの、この答えが返ってきたときに千畝は迷いました。

外交官という立場である以上、日本政府の命令には従わなくてはならない。

でも、従ってしまうと頼ってきたユダヤ人が殺されるのはほぼ間違いない。

ユダヤ人を助けることができるのは、自分の決断にかかっている。

千畝は奥さんに「ビザを発給しようと思うがどうだろう。」と尋ねたところ、奥さんも「どうぞ、そうしてください」と了承しました。

こうして千畝の出した答えは「人道上どうしても拒否することはできない」と日本政府の命令を無視して、ビザの受給資格を満たしていないユダヤ人に対してもビザを発給するというものでした。

その後、日本からもソ連からも何度もリトアニアからすぐに出るようにと退避勧告を何度も受けながらも、ユダヤ人に対して1か月間ビザを発行し続けました。

一日中ビザを手書きで発行し続けていたので、千畝の手は痛んできていました。

途中からは、ゴム印を作り、一部のみ手書きにするようになり、さらにビザを発行するスピードは上がりました。

1940年8月31日、日本政府の退去命令によりリトアニアを去る日。

千畝は列車の中でも発車直前までビザを発給し続けました。

そして列車が発車した時、「許してください。私にはもうビザを書くことができません。みなさんのご無事を祈っています」と駅にいたユダヤ人に対して頭を下げました。

そこにいたユダヤ人たちは「スギハラ。私たちはあなたをわすれません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだそうです。

千畝から日本通過ビザを取得した人全てが日本に行くことができませんでした。

ソ連を通るためにはシベリア鉄道を利用するしかありませんでしたが、シベリア鉄道を利用するためには現金での購入が必要でした。

急いで逃げてきたりしていたユダヤ人には手持ちのお金を持っていなかった人も多く、そういう人たちはお金を払うことができないため電車で移動することができませんでした。

また、無事にシベリア鉄道でユーラシア大陸の東側に来たユダヤ人もすぐに日本へ行くことはできませんでした。

日本政府が大量の難民が日本に来ることを嫌がったためです。

しかしここでは、杉原千畝の後輩たちが奮闘し、日本へ行く船への乗船許可を出しました。

杉原千畝という名前だけが有名ですが、たくさんの日本人の協力があってユダヤ人たちは無事に日本に行くことができました。

千畝が発給したビザにより助かった人々は、リトアニアを離れ、ソ連(現ロシア)をシベリア鉄道に乗り通過し、神戸にたどり着きました。

日本に到着した後、多くのユダヤ人たちはアメリカ、カナダ、イスラエルに移動、他にもイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、中国、南アフリカなどの国に散っていきました。

一方悲しいことに、リトアニアは翌年の1941年の8月にナチスドイツに占領され、すぐにユダヤ人の迫害が始まり、1944年まで続きます。

当時リトアニアには約21万人ものユダヤ人が住んでいましたが、ナチスドイツによる迫害により約19万5千人もが犠牲になったとされています。

千畝の決断によって、多くのユダヤ人が助かり、命のビザを発給した事実は現在でもユダヤ人が多く住むイスラエルで語り継がれています。

イスラエル政府が出している、ユダヤ人に大きく影響した人をまとめている「ゴールデンブック」という名簿の中に「杉原千畝」という名前が記されています。

また、イスラエルの主都テル・アビブには「杉原千畝通り」という名前も作られました。

千畝ことを後世に残すために、日本とリトアニアにそれぞれ杉原千畝記念館があり

岐阜県にある記念館には、毎年イスラエル人の来訪者がたくさんいるようです。

記念館では千畝がビザを発給した人の名前を見ることができるようになっており、訪れた人の中では自分の両親や祖父母の名前を見つけ涙ぐむ人もいるそうです。

 

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